懐かしの学習院八幡平校舎

岩手県

今回の記事に温泉は登場しませんので悪しからず。
単に個人的な懐旧をとりとめもなくメモするだけです。

半年前、岩手県の八幡平アスピーテラインを走っていたら、ふと中学生の頃の記憶が朧げに蘇ってきました。私は中学から大学まで10年間の学生生活を学習院で送り、中学生のときには学校行事の登山のために学習院八幡平校舎を訪れたことがあります。今までも何度も八幡平には足を運んでいますが、今回頓にその時の記憶が呼び起されたのは、おそらくその校舎がつい最近解体された事実を知ったからでした。

学習院は沼津(旧御用邸の隣)や日光(光徳小屋)など各地に校外施設を所有していますが、旧松尾村(現八幡平市)にも八幡平校舎がありました。旧松尾村は硫黄鉱山で一時はとても栄えましたが、需要の急激な冷え込みによって鉱山は閉鎖。住民は一気に離散して辺りは廃墟になってしまいましたが、残された施設のうち、病院だった建物だけを学習院が払い下げを受けて校舎として活用していました。しかし、さすがに1953年に建てられた建物ゆえ、年を経るに従い老朽化が激しくなり、2006年に取り壊されたんだそうです。

学生時代の想い出はあまり振り返りたくないのですが、その想い出のひとつが閉鎖され解体されたとなると、勝手なもので、急に懐かしさがこみ上げてきました。そこで、東八幡平から秋田県方面へ西進している際、取り壊された跡がどうなっているのか、ちょっと興味がわいてきたので、寄り道することにしたのです。

 
あらまぁ…。本当に何にもないわ。病棟いや校舎があったところは真っ平らに整地され、芝生の原っぱになっていました。
でも正面玄関へ向かうアプローチはそのままだ。懐かしいですね。
公園として綺麗に整備されているのは、卒業生として実に嬉しく、地元の方に感謝申し上げます。


ちょうど正門があった場所の前に、閉校記念の石碑が建てられていました。この時の院長は田島さんと仰るんですね。経済界の大御所だということは存じ上げていますが、まさか学習院院長だったとは知りませんでした。私の頃の院長さんといえば、高遠藩子孫にして裁判官として尊属殺人に一家言あったらしい内藤氏、そして丸十の御紋(都城島津)の御当主だった島津氏ですね。

私が八幡平校舎を訪れたのは学習院中等科の頃だけでした。正直なところ、中学・高校の頃の想い出はあまり記憶に残っていないので、はっきりとしたことは覚えていませんが、たしか1~2回程度しか利用していないはずです。その時はどうやら岩手山に登ったらしいのですが、風雨の中で登山した記憶はあるものの、それが岩手山だったかどうかは忘れてしまいました(卒業アルバムも紛失したので確かめようがありません)。

 
(↑右の画像はクリックで拡大)
校舎のあった場所には、かつての姿を写した写真プレートが嵌め込まれていました。そうそう、これこれ、この校舎だよ。懐かしい…。
元々病院だった建物なので、不気味な話には事欠かず、たとえば浴場は以前霊安室だったところなので、よく霊が出るらしいぜ…なんて話をしては、ギャーギャー騒いで楽しんでおりました。


奥の方は展望台として整備されていました。クマ除けのベルが2か所ほど設置されています。

 
八幡平市の職員の方が定期的に手入れしてくださっているんだと思いますが、この時は盛夏まっ只中、草が結構生い茂っており、足元が草の朝露でビショビショに濡れちゃいました。展望台には円形の方位盤が埋め込まれていました。


岩手山もクッキリ。いい眺めだ。
しかし中学生の時は、そんな眺望の素晴らしさに気付くことなく、「一刻も早くこの行事が終わらないかなぁ」とマイナス思考全開でした。心に滲みる景色・風景って、成長して大人にならないと理解できないものですね。


松尾鉱山の旧職員アパート。廃墟マニアには超有名な物件ですね。校舎跡の目の前にあるので、校舎に宿泊しているときは窓からよく眺めたものでした。これらは私が中学生だったころから既に廃墟でして、当然のように肝試しに行くわけです。そして先生から拳骨をもらう…。それにしても、このアパートは廃墟になってから40年近く経つのに、ずっと放置したままなんですね。

上述のように、あまり八幡平校舎に対する思い入れや想い出は無いのですが、唯一鮮明に記憶してるのが、朝な夕な、チャイム代わりにスピーカーから大音量で流れた「ふるさと」という歌です。
YouTubeで聴けますよ
旋律も歌詞もはっきり思い出せます。当時はなぜこの曲が流れていたのか理解できませんでしたが、今になって調べてみると、この曲が主題歌となった山田洋次監督の映画「同胞(はらから)」の舞台が松尾村だったんですね。多分訪問当時の行事のしおりに解説が書かれていたように思いますが、ちっとも覚えていませんでした。今ようやく記憶の穴が埋まりました。それにしても本当に大音量で、屋外スピーカーからも流れていましたので、当然のように歌は霧の中に佇む廃墟群に木霊してグワングワンと不協のエコーがかかって響いていました。周囲には住人がいないからいいものの、そうじゃなけりゃ騒音問題になってるレベルでしたよ。

ちっとも愛校心のない私ですが、かつての校舎が消えてしまった跡を見て、ちょっぴりセンチメンタルになってしまいました。

コメント

  1. Unknown より:

    Unknown
    懐かしい

  2. syriver2 (K-I) より:

    Unknown
    懐かしいです。卒業後にここを再訪される方って、あんまりいらっしゃらないでしょうね。

  3. Unknown より:

    Unknown
    私も卒業生です。旧八幡平校舎のその後を詳しく教えて下さり、有難うございました。入浴時間後の夕焼けと涼しい風、例の廃墟のアパートで拾ったかなり昔の新聞記事、夜の屋上での満天の星空観察会、そしてあの歌、ふるーさとー、ふるさとー、とやけに明るい賠償千恵子さんの声で起こされる朝、など思い出は尽きません。

  4. K-I より:

    Unknown
    卒業生の方からの書き込み、ありがとうございます。
    朝にスピーカーから流れていた倍賞千恵子さんのあの歌声は、いまでも私の耳に鮮明に残っています。跡地を訪れた時も、気づけばあの歌を口ずさんでいました。各部屋の窓から眺める雄大な眺めと、その中にポツンポツンと立つ廃墟群は、八幡平校舎らしい独特の景色だったように思います。食堂でいただく食事や、登山の際に持たされたお弁当がやけに塩辛く、「東北の味付けって本当に塩分が濃いんだなぁ」と身を以て覚えたのも、この八幡平校舎でした。
    現在の中・高等科生はどこへ出かけているのでしょう…。今なら安くて良質の宿泊施設がどこでも確保できますから、わざわざ自前の寮を持つ必要性も薄れてきているのでしょうね。

  5. Unknown より:

    Unknown
    確かに、登山時に頂いたおにぎりについていた、コンブの佃煮が塩辛かったかも知れませんね!私は沼津より断然八幡平の記憶が強いです。ま、2度行ったからかも知れませんが。今は中高等科の生徒は、どこに修学旅行へ行くのでしょうね。

  6. K-I より:

    Unknown
    ちょっと気になって学校のHPを見たところ、現在の中等科は年度によって修学旅行の行き先が異なったり、高等科では沖縄旅行を実施したりと、私の頃とは随分事情が違っているらしく、本当に自分が出身した学校なのかと目を疑ってしまいました。羨ましいです(笑) でも沼津では今でも相変わらず赤フンを締めて泳いでいるらしく、あの伝統が残っていることにホッと安心しました。八幡平校舎は無くなったものの、焼山登山などの行事は現在も実施されているようです。学習院=八幡平という構図はちゃんと生きているんですね。

  7. Unknown より:

    卒業生です
    私も卒業生です。島津院長ということは少しかぶっていたかもしれません。

    あの『ふるさと』は強烈でしたね、初中高と3回いきましたが、
    毎回同じ曲があの爆音でながれるので安眠の邪魔をする騒音のイメージになっています。
    しかし改めて写真と合わせて歌詞を思い出すと、心に沁みます。

    大人になってから振り返ると景色にしても歴史にしても、
    八幡平はいろいろ心に来るものがありますね。
    沼津は特に何も思い出しませんが笑

  8. K-I より:

    Unknown
    書き込みありがとございます。
    おっしゃるように爆音でしたね。しかも何回も繰り返し流されるんですから(笑)。当時の私はガキながら「騒音問題にならないのか」と心配したものでした。おかげで八幡平での他の想い出よりも、あの歌の記憶が強烈に脳にこびりついています。

    >.大人になってから
    そうですね。年を重ねて人並みに物事や感情を知るようになってようやく、大自然の美しさと、昭和の歴史の陰影が織り交ざっている松尾八幡平の魅力や郷愁に、琴線が反応するようになった気がします。

  9. S59/3卒業生です より:

    懐かしいw
    中等科から大学まで10年通った卒業生です。神奈川出身ですが今は遥か離れた日本の南の方におりますが。

    先日10数年ぶりにお偉いさんの露払いでフォーシーズンに行ったついでに懐かしい目白の街を歩きまわりました。

    その流れで旧八幡平校舎を思いだし辿り着いたのですが、どちらかといえば沼津より中等科の八幡平縦走や、高等科の岩手山登山の方が思い出に残っています。

    今にして思えば、玉川とか後生掛とかふけの湯とか魅力的な温泉がたくさんあったんですね。当地だとなかなか行くのはシンドイですが、いつか再訪したいものです。

    懐かしい時間をありがとうございました☆

  10. K-I より:

    Unknown
    S59/3卒業生さん、書き込みありがとうございます。
    目白の街も、特に駅周辺は大きく変貌しましたね。学生の頃に通った駅前のコマースは消え、駅舎もすっかり生まれ変わってしまいました。学生の頃は雑司ヶ谷に地下鉄が通るだなんて、想像だにしませんでした。かつては雑司ヶ谷の目白通り沿いに、鴨を生身のまんまぶら下げている店がありましたが、既にその光景も過去帳入りしています…。
    沼津の赤フンももちろん想い出として残っていますが、仰るように八幡平の想い出の方がより鮮明に残っているように思います。あの独特な環境に加え、肉体的にも精神的にも鍛えられる登山という行事が、記憶をより強固にしているのかもしれませんね。学生時代は温泉にさしたる興味もなかったので、八幡平の地熱が生む周辺の魅力的な温泉には見向きもしませんでしたが、何て素晴らしい環境で滞在できたんだろう、とそのありがたみを今さらになって噛みしめています。もし八幡平の温泉を訪れる機会がございましたら、八幡平松尾校舎跡にも立ち寄ってみてください。地元の方がきれいに維持してくださっています。こちらこそ、ありがとうございました。

  11. 51卒 より:

    Unknown
    S51高等科卒業生です。記憶があっていれば小生たちから高等科は八幡平に旅行(修練?)にいったと思います。修学旅行のかわりに。コメントをよんでいて非常になつかしかったです。ちなみに愚息も高等科卒業生ですが、彼らから修学旅行が復活し沖縄だったとのことです。小生も今度訪れてみようと思います

  12. K-I より:

    Unknown
    51卒さん、はじめまして。私にとっては大先輩でいらっしゃいますね。高等科が八幡平へ行くようになったのはその頃からだったんですか。松尾鉱山の病院が学習院の手に渡ったのは昭和46年のことだそうですから、その数年後に高等科が定期的に使うようになったんですね。
    まさか現在の高等科では修学旅行が復活していて、しかも沖縄へ行くようになっていたとは知りませんでした。私たちの頃は、行事で飛行機を使わないというお約束があったらしく、寝台列車を貸し切って移動していましたが、もう過去の話になってしまったのですね。

  13. H3卒 より:

    懐かしい
    懐かしいです。
    母校には定期的に行っているので、目白の街にはそれほど懐かしさを感じないのですが、合宿所はどうなっているのか知りませんでした。

    八幡平校舎、(私は大学からですが)何度もスキーや研究室の夏合宿で使わせてもらってました。ふる~さと~ ふるさと~ って、睡眠学習的に頭の中でリフレインしてしまっていたのを思い出します。
    ……この10年ほど、いろんな大学の関連施設が、軒並み廃止されているのは知っていましたが、ここもなくなってしまったんですね。妙高ロッジや、別件で、ピラミッド校舎がなくなったのは知っていたものの、何かさびしいものです。

    貴重な写真をありがとうございました。

  14. K-I より:

    Unknown
    H3卒さん、こんにちは。
    実は昨年の夏にも、八幡平を巡った際にこの校舎跡に立ち寄ってみたのですが、今でも地元の方の手によって、草刈りなど綺麗に維持管理されており、皆さんのご苦労に対して、卒業生の一人としてとてもありがたく思いました。なお校舎前の鉱山住宅の廃墟も相変わらずの状態でした。
    以下の2枚の画像は、昨年撮影した校舎跡の様子です。本記事をアップした2011年とほとんど変わっていませんが、よろしければ御覧ください。
    http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/3b/9bbd862494b48a924b6dece7544f5157.jpg http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/5f/f6828ea95aa05b2134f01e2bda23b790.jpg

    松尾校舎といえばやっぱり「ふるさと~♪」なんですね。いまでも大音量で流れるあの歌を想い出します。
    中高等科の校舎がすっかり綺麗になったり(私が在学していたころは、殴れば穴が開いちゃうほどボロい校舎でした)、ピラ校が解体されたりと、この数年で目白の方もかなり様相が変わったようですね。その一方で西1号館がいつの間にか国の有形文化財に指定されていたり、南1号館や厩舎など古い建物がいまでも残されていたりと、昔のままの部分もあってホッとします。
    コメントをお寄せ下さりありがとうございました。

  15. Unknown より:

    こんな綺麗になってるんですね
    何だか急に「ふるさと」を思い出して、八幡平 学習院でググったら、こちらがヒットして拝見させていただきました。
    わたしは、女子部ですが、初等科からなので、八幡平には4回ほど行きました。

    使われなくなったのは知っていたのですが、こんなに綺麗な公園として整備されてるとは知りませんでした。
    綺麗にするお世話もしてくださってるなんて、なんだか本当に有難いですね。

    ご飯つくってくれる職員のおばさまたちがとても優しかったなということをよく覚えています。
    みなさん、どうされてるのかなと想いを馳せたり…すごく懐かしくてやさしい気持ちになれました。

  16. K-I より:

    Unknown
    >女子部ご出身の方
    書き込みありがとうございます。この記事を書いたのは5年前ですが、2年前の夏に再訪した時も綺麗に整備されており、その美しい緑を目にして、一人の卒業生として大変ありがたく思いました。周辺は松尾鉱山跡の荒涼とした景色が広がるばかりで、人は全く住んでいませんから、遠く離れた麓からここまで上がってきて整備することは相当のご苦労だろうと察します。学校のみならず世間一般の施設跡というものは、そのほとんどが消えて無くなるか全く別の建物になってしまい、昔日の面影を偲ぶことは非常に困難になってしまうのが世の常ですが、卒業して相当の年月が経っているにもかかわらず、地元の方々のご尽力によって校舎跡が維持管理され、いまでも学び舎の記憶を思い出すことができるのは、本当に幸せなことだと思います。
    おっしゃるように職員のおばさま方は、まるで自分の子供に接するかのように優しかったですね。私も職員の方々の柔和な笑顔を今でも覚えています。温泉巡りという趣味が昂じて全国津々浦々を巡るようになりましたが、多感な時期の思い出は人生の基礎としてしっかり埋め込まれるのか、この八幡平や沼津など、学校で巡ったところには今でも強い愛着があります。

  17. imaginegargle より:

    懐かしいですね♪
    学生の頃、社会人になってからも何度もお世話になりました。冬のスキーシーズンでも除雪は完璧で松尾校舎までは車で行けました。鉱山跡からの排水の強酸性を中和するための石灰を運ぶために毎日何トンもタンク車が山を登って来るんですね。
    何でここの病院を学習院が取得したかとか、昭和最後の日の松尾校舎とかいろいろ書きたいことも有るんですが長くなるので止めておきます。いい思い出をありがとうございました。

  18. K-I より:

    Unknown
    imaginegargleさん、こんばんは。
    私は学生時代にお世話になった以外に利用することなく、卒業して学校のことを忘れ、その後自分勝手にノスタルジーに浸り、気づけばいつの間にか解体されていたという薄情な体たらくで、こんなブログを書くような資格など無いのですが、温泉巡りや山歩きが好きな性分ゆえ、この界隈にはどうしても出かけることが多く、思い付きで立ち寄ってみたら、中等科高等科時代の想い出が蘇り、つい感傷的になって書き綴らせていただきました。個人的には鉱山好きでもあり、また鉄っちゃんでもありますので、松尾鉱山は常に関心を持ちたくなる存在です。廃山後も整備されている道路を走ると、排水問題が半永久的に続くことを認識させられ、一過性のノスタルジーだけでは済まされないような複雑な心境になります。
    取り留めもない返信になってしまいましたが、コメントをお寄せくださりありがとうございました。

  19. imaginegargle より:

    昭和最後の日の松尾校舎
    昭和天皇が薨去される直前にスキーで松尾校舎を利用しました。明くる朝管理人のおばさんが涙を流しながら弔旗を準備していました。
    間近の国設八幡平スキー場はリフトの運転係員も喪章を付けて音楽も葬送行進曲です。天気は良いんですが何とも妙な雰囲気でみんな無言で滑っていましたね。
    後にも先にもそんな経験はもうないかな。
    仙台在住の同窓生は大学経由じゃなくて直接八幡平校舎に予約入れてOKという特権があり活用させていただいてました。

  20. K-I より:

    Unknown
    >imaginegargleさん
    28年半前のあの日、テレビは各局揃って昭和史を振り返る特別編成を組んでいましたが、一方、松尾ではそのような光景だったのですね。初めて知り、その光景を想像すると、言葉にできないような不思議な心境になりました。予約に関して、仙台の方にそのような特権があるとは存じ上げませんでした。当時も同じかと思いますが、私が利用させていただいたときにも、校舎の方々が、学生全員をまるで我が子のように温かい心で接してくれたことを思い出します。
    暑くなって松尾と同じく思い起こすのが沼津です。赤ふんを締めて、ものすごい海流に流されながら懸命に泳ぎ、夜は塀をよじ登って(脱出して)浜に出て夜光虫の輝きに感動したことを思い出します。

  21. 海外在住 より:

    Unknown
    下から学習院なので3回くらい、八幡平に行ってます。
    ふと友人が八幡平の廃墟に行ったFacebookをあげていたので、ふと気になって調べたら、このサイトに辿り着きました。
    皆さんの語られる思い出、ほぼ自分の思い出と同じでホッコリしました(肝試ししに行って、バレて廊下で正座とか、ありましたよね)笑
    またお邪魔します。

  22. K-I より:

    Unknown
    海外在住さん、コメントありがとうございます。
    下(初等科?)からですと、複数回行くことになりますよね。年代は異なっても、皆さん同じような想い出をお持ちで、同じ学び舎で過ごした者として私もホッとしました。そして過去の記憶を鮮やかに蘇らせてくれるほど、校舎跡を綺麗に整備してくださっている関係者の方に感謝です。

  23. 国民温泉 より:

    Unknown
    K-Iさん学習院だったんですね!
    私の会社は学習院初等科の近くにあり、最年少の情勢皇族の方が駄々をこねて学校に行きたがらず、御所の前の道路を長時間通行止にされて・・・
    思わず車内で”○子ふざけんなよ!”

    ・・・みたいなエピソードトークいらないですね?笑
    今年は、K-Iさんのサイトには本当お世話になりました!おかげで充実した温泉巡りができました。
    来年もどうかよろしくお願いいたします!

  24. K-I より:

    Unknown
    国民温泉さん、こんばんは。
    私は中学から学習院なので四谷の校舎には行ったことがないのですが、私のような者と違って、幼稚園や小学校(初等科)から上がってきた生徒さんは、皆さん本物のお坊ちゃんばかりでしたから、入学した当初は、あまりの生活環境の違いに戸惑いました(笑)。
    こちらこそ大変お世話になりました。こんな拙いブログですが旅のお役に立ててうれしく思います。来年もよろしくお願い申し上げます。

  25. charlotte より:

    今では懐かしい思い出
    あることで八幡平松尾校舎のことを確認したいと思い、インターネットで検索しまして、こちらのブログを拝読いたしました。

    数々のお写真とご説明恐れ入ります。

    初等科(1974/S49卒)・女子中等科(1977/S52卒)・女子高等科(1980/S55卒)で、当時は珍しかった受験(もちろん推薦枠などない)をして、四ツ谷の大学・大学院に行きましたので、四ツ谷通学歴14.5年(博士課程途中からアメリカの大学院)、戸山通学歴6年でした。

    私の学年は初等科修学旅行、中1林間学校、中3東北旅行の一環(とはいえ私は風疹に罹患し、不参加)、高1林間学校と計4回も行かされました。

    初等科は、私の前の年までは五色沼、奥入瀬など行っていたのに、私の代から八幡平のみ、中1ではキャラバンシューズやサージ(ウール)の登山ズボンを購入させられる、高1の主管の先生のお一人が山登り大好きで、岩手山縦走をさせられる、など散々でした。
    (さらには、あまりに八幡平が多いということで、3つ下の妹の代からは中3修学旅行が萩・津和野になり、理不尽さを感じておりました。)

    そんな状況でやはり当時は八幡平にはあまり思い入れがありませんでしたが、それでも初等科の時の主管のお一人 川嶋優先生(昨年ご逝去)が俳句のご指導をくださり、全員数句俳句を作ったことは今では得難い貴重な経験だと思っております。

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