トカラ列島 悪石島を逍遥 (その1・集落)

鹿児島県

※今回の記事に温泉は登場しませんのであしからず

前回まで3回連続で悪石島の温泉を取り上げてきましたが、今回と次回は温泉以外の、何気ない島の長閑な風景を紹介してゆく所存です。

 
フェリー「としま」で悪石島へ到着。桟橋のコンクリには、悪石島を象徴するボゼがキャラクター化されて描かれていました。

 
今回お世話になったお宿は上集落にある「民宿さかもと荘」さんです。お部屋は6畳の和室で、冷房や地デジのテレビ完備が完備され、とっても綺麗で居心地の良いお部屋でした。

 
こちらのお宿は坂元家の2世代が交代で業務を担当しているようでして、私が宿泊した日は初代オーナーであるお爺さんお婆さん夫婦が私のお世話をしてくださいました。ちなみに宿泊客は私一人だけでしたが、お婆ちゃんは腕に撚りをかけて宿泊中の3食をつくってくれました。その全てを紹介するわけにはいきませんから、一部だけをピックアップしてみますと…
画像左(上)は某日の昼食で出た3色丼。箸休めは島らっきょうです。画像右(下)は宿泊最終夜の夕食でして、トビウオの三杯酢、豚の煮込み、大王筍の煮物…という献立で、島ならでは(または鹿児島)の食材てんこ盛りでした。

 
民宿の隣は小さな公民館。この時は改修工事中でした。

 
ちょっと集落の中をうろうろしてみましょう。南国らしくハイビスカスがそこかしこで咲いていました。またトカラの島はどこでもガジュマルの大樹がどっしりと根を下ろしており、集落の民家はこの大樹の木陰に身をひそめるように建てられていました。

 
「巨木ガジュマル自然館」と称するエリアがあり…

 
そこでは樹齢数百年のガジュマルの大樹が密集しており、複雑に絡みあう根っこに圧倒されるとともに、簾のように垂れ下がっている幾筋もの気根が実に涼しげでした。

 
島に生活する子供たちには欠かせない施設である悪石島小中学校。広くて飾りっ気のない校庭がいい雰囲気です。

 
こちらはコミュニティーセンター(村役場の出張所)。フェリーの切符を購入する場所ですから、外来客は必ずお世話になる施設です。その隣にはコインランドリーが設置されていました。

 
コミュニティーセンターの右隣には「美女とネズミと神々の島」記念碑と称するものがあり、真ん中の円から景色を覗いてみると、小島・小宝島・宝島が望めました。

 
コミュニティーセンターの後背には放牧地が広がっており、黒毛の牛が猛暑の中、灼熱の太陽光線をもろともせず、のんびりと竹の葉を食んでいました。

 
コミュニティーセンターから数百メートル海側に建つ発電所。島の生活には欠かせないインフラですね。

 
集落の外れで真白い屋根の牛舎を発見。牛は私を見つけるとモーモー鳴きながら、こちらへ近づいてきました。人懐っこい牛に思わず心が和みましたが、その牛は美味しい物でも何か欲しかったのかしら?


牛舎からもうちょっと奥へ進むとヘリポートがありました。単にコンクリ舗装されているのみならず、ちゃんと照明器具が設置されており、夜間の離着陸も可能。ドクターヘリもここに到着します。


島唯一の自販機は「民宿南海荘」の前に設置されており、ちゃんと稼働していたので、ここで2回ほど冷たい飲み物を購入しました。


島唯一の商店です。いつも営業しているわけではないみたいでして、私が島に滞在している期間、開店している場面には遭遇しませんでした(単に私のタイミングが悪かっただけですが…)。

 
集落から港の方へ下りてゆく途中の道端ではバナナが花を咲かせていました。

 
バナナの近くにひっとりと佇んでいたのは対馬丸慰霊碑です。戦時中の話ですが、サイパン陥落によりB-29による本土爆撃が可能になったことを受けて、政府は沖縄の非戦闘員を本土などへ疎開させるとともに、本土からは兵員や軍需物資を沖縄へ輸送することを決めます。つまり本土から沖縄への往路は軍事輸送、復路は疎開輸送を行うわけで、その輸送の一翼を担っていたのが「対馬丸」です。この船は1944(昭和19)年8月初旬に門司を出港して沖縄や上海方面へ向かい、復路に沖縄で疎開する学童を乗せて長崎へ向かいますが、同月22日、悪石島の近海でアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」の攻撃を受けて沈没し、779人の学童を含む1476名の犠牲者を出してしまったのでした…。


港へ下りる道の途中には、温泉マークが書かれた岩があり、そこから細い路地へ入ると…

 
海中温泉や…

 
湯泊温泉や…

 
砂蒸し風呂があることは既に前回までの記事でレポートした通りです

次回は集落から離れてみます。

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